全てに意味を見出すことは必要か?
自分の性分的に作品を作る、何かを学ぶ上でその行動を理由づける「意味」の様なものがあると捗る、、、
、、、と思っているのだが、どうしようもなく疲れる瞬間が定期的に訪れる。その度に性に合っていないのではないか?と思うが、適当に指定良い部分とのバランスが取れず崩壊する。
その都度新しい学びや、刺激が別角度からの視点を見せてくれるのだが、いかんせん時間とのコスパが悪い。
物事の表面から全体を捉えるような愚行をせぬよう日々気をつけているが、腰が重くなる上に誰かと何かを作ることであったり、感情が先走るような衝動に出会うことが少なくなる感覚が否めない。
自分は金銭のために音楽をやっているわけではないと思い詰めるたびに手が止まる。
自分の尊敬する音楽と商業音楽の間に自ら溝を生み出しているのかもしれない。
そもそも商業音楽という極めて曖昧なものについて悩み、答えのない芸術に対して、「コンセプト」と「意味」を履き違えた結果なのだろうか?
配信に自己の音楽を載せるという行動自体はとても満足している。
「誰にも物言われない音楽」を体現しようというコンセプトにも疑問はない。
なのに次回以降の音楽について草案を練る度に全くもって自由でないことに気が付いてしまう。
ごく限られたコミュニティに評価してもらう心地よさも関係しているだろう。
音楽の評価軸を自己の感覚にしか持ってこれないが故の不安もあるだろう。
正直に生きられない自分のせいでもあるだろう。
クオリティ然り、時間然り、制限のない制作の苦しみを改めて感じている。
思い返せば「GIFT」も自分の誕生日という期日を設けて初めて体現した物だった。
「GIFT」公開前、「不可逆」の制作にあたっていた際に、Phritzさんのインタビューの中に「Creative Limitation」という言葉があった。
Phritzさんの語っていた内容とは少し異なるが、制限を設けることで作品を既存のレールから外してくれると自分も感じた。
音楽との付き合い方は尽きぬ悩みだが、最近は、冒頭でも書いた通り意味を見出す行為に疲れているので、特定の相手や事象に絞って制作してみるのも良さそうだ。
まだ自分には絶対音楽は作れないし、その真価すら掴めていない。
性分の話に戻れば私は標題音楽の中で過ごしてきたのだから。
商業音楽と標題音楽、この二つについてもう少し考えていく必要がありそうだと感じた。